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横浜洋食の原点?「インゴ屋」こと「開化亭」の話をまとめてみたよ。

最近は和食ブーム、いやいや日本食ブームってやつなのかしら?日本の加工食品やラーメン等の日本のフィルターを透した食品が注目を集めてるいるみたいですね。

そんなところの原点になりそうな事ををちょっと書きたいのですが、えらく長文になりそうなので先に参考資料として今回はステーキ、ビフテキの話を載せておきましょう。以前にも書きましたステーキのインゴ屋「開化亭」と大衆洋食のお話しです。
インゴ屋こと「開化亭」は明治4年の開業とされていまして様々な文献にその名前を見つける事ができますが、まとまった記載が無いようなのでアチラコチラからかき集めた資料を稚拙ながら繋ぎ合わせて此処に載せて置きたいと思うのです。

「開化亭」は明治4年に関内の相生町に開店をし二年後に関内の大火により不老町に移転をし、昭和初期(震災後?)まで営業を続けていたと言われています。
名物はなんと言っても独特な薫りのステーキと個性溢れる店主だったようですね。

店主の森井平吉は白髪混じりの丁髷を結い「待つのがいやなら帰ってくれ」「おせいじをいいなさんな、うまいのが当たり前だ」といったふうな、つっけんどんな口上を発するため店に付いたあだ名が「インゴ屋(因業)」「いんごう屋」だったそうな。
ご店主は、なかなか頑固なお人であったようで客が催促でもしようなら怒り、待って食うのが旨いのだと一時間くらいは料理を出さなかったようであります。
おまけに店は不定休ときたら、当時の客の苦労が偲ばれてきませんか?(笑

獅子文六の回顧によれば不老町に移転した場所は港橋を渡ってすぐ右側だったとあります『横浜繁盛記』には不老町一丁目(牛)開化亭とあります。店構えは油障子を立てかけてありテンプラ屋のような趣であったそうな。

揚げ馬鈴薯つきビフテキ、素麺のスープ、ライスカレー三種のコースの定食が提供されたとしています。
よほど「インゴ屋」というあだ名が通っていたようで文中では「たしか浪花亭?」と文六先生が店名を記憶違いしているのはご愛嬌としておきましょう。

客は座敷にあがりこみ、料理を食するいわゆるお座敷洋食でありましたが、特に旨かったのがビフテキだそうで、焼けぎわに醤油を入れるのがコツと記されております。
ここ大事なので、平野威馬雄も”しょう油の味を生かしたビフテキの風味と。。。”とわざわざ『横浜今昔』に書いているのを強調しておきたいと思います。(笑

獅子文六が書籍のなかで大田屋の主人と並んでインゴ爺さん森井平吉氏を文化史的価値を有する人物に違いないと評するのは、洋臭を退治した洋食の開拓者 日本的洋食の創始者として後世に名を残すだろう推測としての事です。

ここにおいて、醤油ステーキの発祥は横浜に間違いない!
って、小さな声で言っておきますが。。。歴史は書き換えられるのが常ですからねぇ(笑


明治期に西洋料理を食べるのは一部の富裕層だけであったと発言される方が多いのですが、この「開化亭」は如何だったのだろう?と少し疑問に思えてきます。

ハヤシライスの発祥説で度々名前のあがる医師であり当時横浜で洋書販売を手がけていた早矢仕有的などもインゴ屋に訪れていたという話もありますので、まぁ安くはなかっただろうけれど”あだ名”を付けられ有名になるくらいだからそこそこ収入のある市民には一度は喰ってみたいと言われる位の位置につけていたのではないかしら?
少なくとも文六先生が仰るように、明治の早い時期には渡ってきた西洋料理から日本人好みに変化した”洋食”が存在していたわけですよね。
そうそう「万国チャップ」「真砂亭」と呼ばれた洋食屋さんは獅子文六『飲み食い書く』の中では大衆洋食と書かれてい横浜下町人に人気だったとされています。好奇心旺盛な横浜市民は早い時期に西洋料理から日本人好みに味や提供方法を転換して行った”洋食屋”に親しんでいたのですから、なにも”洋食”は高給取りだけのものでもなかったようです。

”富国強兵”と言う御国の思想と別ベクトルである、”うまいもの食いたい!””新しい文化に接したい!”という大衆の欲求が存在しているのなら、西洋料理を日本人好みの”洋食”へと転換していく過程、歴史を無視してはならぬ断片”大衆的洋食”大衆から発せられた”洋食”の欠片があるのです・(ああ!上手く書けないわ!笑)
そこが横浜という限られた土地であっても食文化としての萌芽は見えているのです。この辺りは次回にもう少し詳しく書きたいと思います。

さて本題の開化亭にもどりまして、獅子文六さんに因りますと横浜の「インゴ屋」は震災で失われたとあるのですが…


「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし⑤
ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一によりますと、

>開化亭は、戦災で消えるまで不老町にあった明治以来の古い西洋料理屋でした。市役所の先の橋を渡った向こう、角に郵便局があり、その隣にありました。
 むかしから“いんごう屋”で通っている、一風変った気骨ある親爺さんの店でしたよ。店は普通のしもた屋で看板も何もなく、入口の大きな一枚ガラスに。開化亭と書いてあるだけなのです。入るとすぐ土間で一段高くなった処に二帖分位の畳が敷いてあって、ここで洋食を食べさせた。客は勿論座って待っているわけで、「遅いぞ。」なんて注文の催促でもしようものなら、親父が怒るので、みんな静かに皿が出てくるのを待っていました。それで通称「いんごう屋」だったわけですが、美味い料理を食べさせるので、客は絶えなかったわけです。
 相生町一丁目の梅香亭、あれも古くからある洋食屋ですね。<

と、戦災で消えるまで営業されてとされています。

大正2年の生まれの ちぐさ親父さんが関東大震災にあうのは10才の時ですので、どうも文面から察するところでは”親父さん”の記憶は子供のころのものとは思えない気がします。閉店の年代は今一度吟味してみましょう。

そうそう!
暖簾分けか、支店なのか移転なのか定かではありませんが、文六先生が銀座に「因業屋」が在る事を『飲み食い書く』のなかで書き残しておりますが、おそらくは此方の店のことではないかと推察しています。





昭和9年発刊婦人倶楽部付録『家庭で出きる 東京大阪 評判料理』


ー 特製スープ ー

東京銀座 いんごうや

ビフテキとカレーとスープの他は何も賣らない隠豪家の自慢のスープで、日本式に味をつけたとしても美味しい茶碗盛りです。
材料(三人前) 牛の脛肉五十匁、玉葱大半個、西洋人参半本、醤油、鹽、味の素。

拵え方 (1)牛の脛肉は、細かに切つておきます。(2)玉葱は、皮をむいて輪切りにしておきます。(3)西洋人参は皮をむいて、適度の大きさに切っておきます。
(4)水一升の中に前の脛肉と野菜二種を入れて約八時間ほど弱火で煮込み、材料がすつかり溶けるやうになりましたらば、上面のあくを掬つて捨て、布で漉しておきます。
(5)客に出す前に漉し汁を煮立て、醤油と鹽を注し、上がり際に味の素を少し入れ、加減を見て、熱いところを茶碗に盛って出します。




銀座のインゴ屋は”いんごうや””隠豪家”と名乗っているようです。だいぶこなれて因業ではなくなってしまったような感じですね。(笑
ビフテキとカレー、そしてスープだけの提供。”日本式”と言うだけあって”醤油”で味付けされたスープ。
此処は文六先生の記憶を裏づけてくれる資料だと思います。

さて最後になりますが、検索などしていますと一部「開花亭」(化→花)と表記されているのも見受けられるのですが、『横浜繁盛時』や明治12年の『横浜名誉鑑』を写したとする『横浜思い出のアルバム』などには「開化亭」と記されておりますので。。。たぶん「開化亭」で間違いないと思うわ。(笑

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⬆️写真はあえて載せないけれど。。。。。押せ!って言ってみようかな?(笑

「インゴ屋」さんの事は手元にある資料だけでまとめてみました。以後何か判りましたら書き足して行きたいと思います。
そして、なにか私の知ら事、書籍、何よりも間違いをご指摘下されると幸と思っております。

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2016-03-30 : 食本と昔レシピで味つけね : コメント : 8 : トラックバック : 0 :

チャプスイの歴史スタートに疑問あり。”ちやぶちい”はチャプスイだろうな?

李鴻章にまつわるチャプスイ誕生についてのエピソードをご紹介します、なんて以前に言っちゃましたね。
その前にとりあえず載せておかなくちゃならないモノがでました。

先ずは李鴻章について簡単に知るのにWikiさんのお力をお借りしましょう
長いし難しいよね。実は私も詳しく勉強はしていないのよ。(笑

とりあえず押さえておきたいのは、
清朝末期の政治家李鴻章<りこうしょう>が、1896年に大使としてニューヨークを訪れた際に食されたとするエピソードと共に語られる"李鴻章説"を起源とされる事が多いのでとりあえず「チャプスイの歴史スタート1896年」とされる事。
1896年(明治29年)にニューヨークに訪れた李鴻章の連れてきたコックが晩餐会にチャプスイを出したなどとされる複数のエピソードが語られているのですが、これ。。。1896年スタートをチョッチ吟味しないといけなくなりました。

先日 摂津国人さんからラーメンからみの情報として教えて頂いた書籍。
社会百方面 乾坤一布衣 民友社 明30.5(1897)」「居留地●●(禁止ワードらしい)記 27年初夏(1894)」の章の横濱の南京町の「飲食店」 
の中に、なんと”ちやぶちい”って記載があるのです。
これスタートより2年早いんだ。 まさにビックリ!?なフライングだよ!(笑

そうそう!この『社会百方面』なのですが、明治27年初夏に書かれている事に注目しておいてください。
この時期はまさに日清戦争が始まる時なのです。
少ない書籍しか読んでおりませんが日清戦争前までは”支那”に親しみと尊敬を持っていた記述が多かったと感じていたのですが、この辺りから”支那”は蔑称化されていくように思えます。差別っていまわしい時代の始まりなのかもしれません。
ここは大事にそして慎重にあつかって頂きたいところなのです。

本日は”ちやぶちい”って新しい記載を資料として載せておしまい。(笑

最後に長谷川伸さんの『ある市井の徒 新コ半代記』から
>そのころの人は南京町に親しみをもっていて、白人諸君のいる街を歩くときと違い、居留地以外を歩いているのとおなじように、安心感みたいのがあったものです。

なんて引用して終わりたいとおもいます。

2015-12-14 : 食本と昔レシピで味つけね : コメント : 11 : トラックバック : 0 :

ラーメンの歴史に新しいページを増やして欲しい。

広東麺麵を探しているうちにラーメンの歴史やら発祥に踏み込んでしまいました。

明治時代になると居留地で食べられていたトンコツ塩味の”ラウメン”が、明治43年に浅草に横浜中華街から招いた中国人料理人を雇って日本人向けの中華料理店「来々軒」により醤油味と変化したのが東京ラーメンの元祖である。

ラーメンを語れる程の経験を持ち合わせていないので此辺りは軽く流そうと検索しただけなのですが。。
どこもかしこも上記の事柄がコピペされて拡散されている?って印象でした。
参考文献とか書かれていないところがほとんどかな。。。
もとになっている書籍はなんだろう? なんて気になり探してみると。。。
どうも2002年発刊『ラーメンの誕生』岡田晢著 辺りがもと文献のような気がします。
お願いだから。。。文献提示して下さいよ〜笑

さて、その『ラーメンの誕生』を読んでみますと。。。
横浜中華街(居留地)に明治(30年?と読めてしまうのですが、それはないなぁ)「柳麵麺」の屋台ができそこで食されていたのは、

>包丁で切る柳麵麺、トンコツの澄んだスープ、トッピングなしのシンプルさ。
これが、広東料理の故郷の味を思い出させる、彼らのラオミエンであった。

って書いてあるのよ。。。マジ? トンコツ&塩味なの?   私しゃ凄んごく意外でした。(笑

さて、どんな文献を参考にしているかって事になると。。。
獅子文六さんや長谷川伸さんのお話をあげられていますが、そこにはスープの味やら包丁で切った柳麵麺には言及されていないと思えます。
(”匂いにムッとした”豚蕎麦”、って記載はありますがそこだけでスープが豚肉や豚脂、ましてや塩味って確定するのはどうなのだろう?)
さて本の中ではそんな居留地の”塩味トンコツ麵”がサラッと流され、浅草「来々軒」で醤油味に進化すろところで醤油味の東京ラーメンの誕生って事になっていくのですが。

醤油スープは来々軒が元祖なの?
ラーメンの元祖問題にあまり踏み込むつもりはないのですが、横浜居留地内での麵料理に興味があるのですよ。
どんな文献から”トンコツ塩味”やら”切り麺麵”が出てきたのか、そして居留地中華麺には本当に醤油は使われていなかったのか?   誰か教えて下さいませ。

因みに明治36年4月に刊行された『横濱繁盛記』のなかには、
>各色炒麵、くかしょくしゃめん>(やきそば)、銀絲細麺<ぎんしさいめん>(南京そば)、牛肉大麺<ぎゅうにくたいめん>(牛そうめん)の記載がでてきます。
なんだか すんなりと私は居留地ラウメン”塩味”オンリーを受け入れられないのよね。

そうそう! 岡田晢さんはトンカツ本もお書きなのですが、たしか”料理本のソムリエ”で異議申し立てされていたんはずだよな。。。とその辺り調べてみたら、
”はてなビックリマーク”でもかなり突っ込まれているようです。

”はてなビックリマーク”を読みましたか?トンカツだけではなくラーメンの事も少し書いてあったでしょ?(笑


『浅草経済学』 石角春之助 文人社 昭和8によると浅草では明治41年頃、千束町「中華楼」が浅草での元祖 だとしています。
これまでの支那料理店とは異なり、支那ソバ、ワンタン、シューマイを看板とするそば屋である、シューマイ一銭、ワンタン六銭、支那ソバ六銭と詳しく書かかれていますよね。
これが本当なら明治43年開業の来々軒より二年ばかり早い事になりますから歴史に1ページ増やしても良いんぢゃね?(笑

現在でも「中華楼」という同名の中華料理老舗店が存在しているようです、誰か検証してくれると嬉しいな。

今日は『ラーメンの誕生』の”横浜居留地南京ソバは塩味”説を信じ、長谷川伸『ある市井の徒」に書かれているラウメン描写を下敷きにして、

>ラウメンと新コがいうと首肯いて向うへ走り、イイコウラウメンと些か節をつけて発注してくれます。間もなくおやじは饅頭の皿と焼売とハーカーの皿とをおいてゆく ー中略ー 豚蕎麦のラウメンは五銭。 ー中略ー ラウメンは細く刻んだ豚肉を煮たのと薄く小さく長く切った筍が蕎麦の上にちょッぴり乗っている、これがたいした旨さのうえに蕎麦も汁もこの上なしです。<

爺風の豚出汁澄まし塩味の”新コ ラウメン”を作ってみました。


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食べた感想は・・・・これぢゃ絶対に湯麺(タンメン)の元祖だよ!って言いたいわ!(笑

作家の池波正太郎さんは亡き師長谷川伸さんを忍び、先日載せました「徳記」を題材にこんな一文を書いています。

>さびれた裏通りの袋小路の奥にある徳記のラーメンのうまさは、横浜出身で、明治末期の支那飯屋のラーメンを懐かしがっていた亡師・長谷川伸に、ぜひ、食べさせたかった。亡師はラーメンといわずにラウメンといった。<

明治末期の支那飯屋を懐かしがっていた師の食べた”ラウメン”は。。。。ほんとうに塩味だったのだろうか?
どうも私はすっきりと”岡田説”飲み込めないんだよなぁ
何か良い書籍でもあったら教えてくださいませ。m(__)m

2015-12-03 : 食本と昔レシピで味つけね : コメント : 13 : トラックバック : 0 :

伊府麺の事。




横浜中華街でも入りにくい立地に在る「徳記」さんへ伊府麺を食べに行ってきました。


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”鶏翅伊府麺” 手羽先トロトロ♪


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春巻きパリパリ♪     以上お終い。






アハハ。。。少し伊府麺のお話をさせて頂きます。

中国ではこの”伊府麵”が関東料理に属するのか”揚州料理に属するのかが、ずっと論争の的になっているそうです。
それはこの料理を生み出したとされる伊秉綬<いへいじゅ>が広東の恵州と江蘇の揚州の知府を歴任した事から生じた問題だそうな。

結論を簡単の述べてしまえば、伊秉綬が恵州の知府であったときに広東に伝えられ、のちに揚州の知府になると江蘇に伝えられのだから、どちらの料理と言っても誤りではないそうです。(笑

鶏卵と小麦粉だけ、水などは一切使わず打たれた麵を少し陰干ししたのち、一定の形にして油で黄金色に揚げると半完成品となり、食べるときに炒めて煮込んでも良いし茹でて湯麵にしてもかまわない。
正統の伊府麵は1センチくらいの幅広であるが、現代の中国でも方便麺(即席麺)の手法のものばかりで本物にであうのは難しいようです。
参考『中国美味漫筆』

日本の古いレシピ本にも中国での高級麺として紹介されていることが多く見受けられるのですが、どうも日本では根付かなかったようで今では提供店舗は珍しいですよね。
(新宿 中村屋で売っているらしいですよ! こんど買いに行きたいと思ってます。)
むしろ”揚げる”手法がインスタントラーメン開発のヒントになってのでは?って事での名前が有名かもしれません。

「徳記」さんの伊府麺は鶏手羽先を使っているので、食べているうちに「なるほどぉ〜」と何処かにチキンラーメンを感じる風味があります。  って言ったら可笑しいかな?だって伊府麺が元祖なんだからね。(笑

麺のコシは期待してはいけませんので好き嫌いが少し分かれるかもしれません、しかし未食の方は話のネタに一度くらいは試してみるのは良いのではないかと思います。
「徳記」さんでは秋から冬の季節限定となっていますのでご用心下さいませ。






名称未設定 1


実は参考資料として載せさせて頂いております。 ツベコベはまだ続く。(笑

2015-12-01 : 食本と昔レシピで味つけね : コメント : 14 : トラックバック : 0 :

「銀座アスター」でアスター麺。 これってチャプスイ麺?

宿題をこなす為に鎌倉まで出かけました。
昭和元年創業 米国式中華料理の草分け「銀座アスター」が目的です。





こちらのお店は初訪問です。
江ノ電改札の横「江ノ電ビル」の二階なんですが なんとなく入り難のよね。
だって。。。なんとなく東京の香りがするんだもん。(笑
意を決して入店してみると案の定店内の八割方は鎌倉マダムって感じでした。

古くからの鎌倉の人って何処か大らかなんだよなぁ  特別な雰囲気を持ってるよ。
高校時代を湘南で過ごしてしまった私は鎌倉に憧れと親しみを抱いているのですが、どうした訳か唯一そこから香る”東京の香り”が苦手なんです。
浜っ子(下町の)は多摩川を渡るのが苦手なんて言われる所と共通の思いがあるのかも?(笑


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そもそも私的歴史観では、鎌倉の観光事業は横浜からの外国人を受け入れる事で大きく伸びていったと思うのです。
その後は交通の利便化に伴い箱根、日光と拡大していくわけですが。。。
そんな鎌倉は交通網の発達と共に東京の有力者やら著名人の別荘や別宅が建ち、そして素敵な住宅街として静かに栄えていくのですが、それに伴い当然の様?に横浜を飛び越してしまい東京文化を取り入れていくのよね。

ああ! 何処かうらやましい!(笑
(現在 出世した同級生数人が東京までグリーン車に乗り、仕事に通っている事実を非難しているしている訳ではありません。  けっして。。。 )
でも、鎌倉市民の皆さん横浜を忘れないでね。(T_T)


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焼売をいただき生ビールのアテにしました。焼売は二つから頼めるのが嬉しいね。
スタッフの対応は素晴らしく良いと思えます、これは是からの中華街も見習う必要があるかも?なんてマジに思いましたよ。
たまには鎌倉まで夜メシ食いに来ようかな。。。なんて真剣に思っちゃったもん。


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さて、本題の”アスター麺”なんですが、これはチャプスイ麺の元祖?なんて思ったのですが、ネットで調べる限りでは生まれが昭和30年代らしい、東京タワー建設記念で作られたやら複数出てきたので此処は調べる時間も無く曖昧な所で失礼させていただきます。

軽い餡掛けに”醬”?の味が効いている感じ、広東麺とは少し違ったコンセプトを感じますコク重視かな?
それでも餡掛け仲間って親しみは持ち合わせており同類だと言いたいと思います。美味しくいただき大満足でした。
焼きそばは創業以来のメニューらしいので次回はカタヤキを食べなくちゃ

チャプスイを看板に開業したアスターさんには現在は”チャプスイ”ってメニューは無いようです。
これ。。。。とっても残念です。  復刻してくれないかなぁ



 
2015-11-22 : 食本と昔レシピで味つけね : コメント : 12 : トラックバック : 0 :
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プロフィール

いその爺

Author:いその爺
横浜在住
五十路で早くも爺さんになちゃった。
“食”“写真”“郷土”が好きです。

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