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サーカスから、劇場、氷屋、アイスクリーム、牧場、牛乳、居留地のリズレー紀行。

探している資料が載っていないかと思い、注文していた『横浜外国人居留地ホテル史』が届いたのよ。
斜め読みしてみたら、先日のアイスクリーム記事の事が詳しく書いてあるぢゃないの!
あ~  フライング後に届くなんて。。。嫌な奴。(笑


さてさて以前より不便だなぁと感じていたのは、横浜の震災以前の歴史をネットで探してみると、必ず"水道”"港”"クリーニング”“西洋野菜”って項目で書かれている事なんだよね。これって重複した項目で活躍した人間模様みたいのが全然見えてこないのですよ。

以前よりこの辺りをネット上に残しておく事って 別の捜し物をしている方にとっても大事だと思っていたので、今回は思い切って他の文献やらネット記載を纏めてサラリとまとめて載せてみようかと思い立ちました。
文末に文献等を記載しますので、興味ある方は其方原本を調べて下さい。
あくまでサラリなので、間違い等ありましたら、何時でも御一報下されば精査の後加筆訂正をさせていただきますので宜しくです。
あっ!歴史に興味ない方は早めに離脱して下さいね。(笑







元治元(1864)年3月6日 アメリカ人リズレー率いる一座は英船カークコネルで上海より来日しました。
当時の錦絵「中天竺舶来の軽業」などに描かれている、10人の座員と8頭の馬による我が国で最も早く興行されたサーカス団の到着であります。

リズレー一座は馬の上での軽業が得意で居留地では大評判をよんだのですが、横浜居留地の外での興行は残念ながら許されなかったようです。
最初のうちは好評をえていたものの同じ出し物が続き、居留地という限られたなかで飽きられ客足は遠のいてしまい、五月上旬に興業を打ち一座は横浜の地で解散となります。

このリズレー(Richard Risley)はサーカスで検索すると意外とヒットするのですが、横浜における功績と思える牛乳、劇場、氷、アイスクリームでは情報が非常に少ない事に驚いてしまいました。

1864年5月に一座を解散した彼はサーカスで使っていた八頭の馬を使い6月には貸し馬車業を始め、酒場、劇場経営と次々に新しい商売を試みます。

P5240082[1]


1864年12月2日には居留地102番で「ロイヤル・オリンピック劇場」という小さな劇場を開いています。
これは横浜居留地では最初の劇場となるようです。

リズレーは翌年3月6日には氷を仕入れに天津に出港、5月15日には前田橋近くに(112番)に氷屋を開業。「ロイヤル・オリンピック劇場」側の酒屋を止め、アイスクリーム店を出店します。(102番)
これが我が国初の、アイスクリームの製造販売という事になりますね。この店は繁盛したようですよ。

その翌年1866年2月22日 サンフランシスコから牝牛六頭を連れて帰ってきたレズレーは4月には牛乳店を開業している。
(別の船にも牛を乗せていたようで、実際には彼の牛はもう少し多かったかもしれません。)
現在の前田橋の側112番に在った氷店が 牛乳と氷の店「アイス・ハウス」となったわけです。
店の傍らで牛を飼ったことで、ここに日本で初めての“販売目的で搾乳する牧場”の誕生をみることができます。

さて日本人で最初に牛乳の搾りかたを憶え牛乳販売をしたといわれる、前田留吉は前田橋の側で最初は雇われており、彼に乳搾りを教えたのは“オランダ人” もしくは“オランダ人スネル”であると書いてある記述がたいへん多いのです。

此処は注意が必要。

『横浜外国人居留地ホテル史』には
前田留吉が牛乳屋を始めるようになったのは、スネルの影響によったものだと、「横浜貿易新聞」などに古老の話に基づかれて書かれ、これを受けて『横浜市史稿』(産業編)や多くのものの始めにかんする本にも、同様な記載がみられる。
しかし、スネル兄弟が牛飼いをしていた記録はなく、近辺の様子を考えても当時18、17才のスネル兄弟が前田橋側で牛乳搾りをしていた事を疑問している。

前田留吉が働いていたのは、地番を考えるとリズレーの牧場であったのであろうか?
この辺りもうチョイと詳しく知りたいものです。 

さてさて横浜の牧場なのですが、明治五年五月神奈川県からの布達でで市街地での牛豚の牧畜が禁止され、根岸などの郊外に牧場は移って行くことになります。
近年まで中区簑沢あたりにあったという石川牧場がその最後の名残だったのではと回想する方も多いようである。
(実は私は戸塚方面の牧場に最近興味を抱いておりまして。。。。ここは後日。)

1866年9月にはジェームスがコープランドらと手を組んで137番で牛乳店を開いた事もあり、リズレーの店は大打撃をうける事になったようです。
中川嘉兵衛、下岡蓮杖、仮名垣魯文なども牛乳販売を手掛けていく事になります。

さてリズリーなのですが、1866年12月5日に江戸で評判だった曲芸師など18名を引き連れ、ともにアメリカに向け出発。
アメリカ各地を興業した後 2年もの間にフランス・イギリス・オランダ・スペイン・ポルトガルなど、西欧のほとんどの国を巡業したそうです。
その後リズリーが再び日本に戻った形跡はないようです。

まさに馬上の曲芸師の如く、横浜の外国人居留地を駆け抜けて行ったリズレー、彼の果たした横浜食文化への役割はどのように評価されるべきなのでしょうか?


今回 駆け足でリズレーを追いかけてみました。
今回も熟成が足りない記事でありますが、時間を掛けて加筆訂正していく未完成な記事としてお許し頂こうと思います。
写真等も掲載可能なものを見つけたい。。。。。
こんな成長過程の記事がたまには在っても良いぢゃないですか?(笑
今回も横浜食歴史を調べていますと酔華さんの足跡を数多くみつける事ができます。 凄いなぁ


参考文献&ネット記事。

『横浜外国人居留地ホテル史』
『横浜ことはじめ』
B級グルメの食べ過ぎに注意 その3 コーヒー牛乳
歴史系総合誌「歴博」第118号
その他諸々
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2014-05-14 : 未分類 : コメント : 7 :
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名前
この方の名前は色々な記載があってよく分かりません絵。
レズリー、リズレー、リズリー・・・
都市発展記念館の青木さんは「リズレー」ですが、
国立民族博物館の松尾さんは「リズリー」ですねぇ。
この辺の解明もお願いしていいですかぁ。
2014-05-15 09:14 : 酔華 URL : 編集
Re: 名前
> 酔華さん

コメントありがとうございます。
あっ二つばかりリズリーになっていました、今回はリズレーに統一しようと思っていたのですが…
後で直しておきます。
リズレー、食文化史では注目は薄いのでしょうか?
というより、戦前 震災前の横浜食文化に関する本の少なさに驚いています。
何型良い本があれば教えて頂けると幸です。m(__)m
2014-05-15 13:20 : いその爺 URL : 編集
>もう一度酔華さん

あれ? 酔華さんに言われて…
検索方法を買えてみると、ずいぶんと違うモノが見えます。

m(__)m
2014-05-15 22:45 : いその爺 URL : 編集
いや~勉強になります。
神戸の事を知ろうと思うと、横浜が先輩ですからね
横浜居留地にサーカスが来てたんですね
神戸にはどんな人が来てたんだろう?
2014-05-16 08:26 : メタボ夫婦 URL : 編集
お早うございます
とても興味を覚えさせて下さいました。
横浜は昔からモダンですね。
2014-05-16 09:52 : 相子 URL : 編集
Re: タイトルなし
>メタボ会長

そういえば。。。なんでリズレーは神戸にいかなかったのだろう?
居留地の外で興業は許されない理由は、なんとなく想像がつくのですが。。
神戸ならOKだったと思うンです。

ああ今晩も寝れなくなりそう。(笑
2014-05-16 22:53 : いその爺 URL : 編集
Re: タイトルなし
>相子さま

最近、横浜がほんとう横浜らしくあったのは震災前だと確信する様になりました。
以後は神戸がモダンの中心だと思われます。

横浜の誉れは。。。。サンマー麺ですもの。(笑
2014-05-16 23:09 : いその爺 URL : 編集
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プロフィール

いその爺

Author:いその爺
横浜在住
五十路で早くも爺さんになちゃった。
“食”“写真”“郷土”が好きです。

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